もう40年も前の話。
大学では柔道部に所属していた。
選手としては全く使い物にならず、事務担当で、1~2年では体育会本部の委員をしていた。
1年の時の正月 箱根駅伝の応援にかり出される事となった。
母校の体育会は一部体育会 二部体育会 工学部体育連合の三つがあり私は二部体育会所属。そして一部体育会本部の面々はあまりお知り合いになりたくない武闘派の方々。
通常駅伝の応援は一部と二部体育会本部の委員長と副委員長が応援団と一緒に行くのだが、その年本部委員以外の武道系の幹部数名が同行する事となった。
当時車を自由に使える学生が極端に少なく、私に車を出して運転手をするようにと命が下った。
正直とても嫌だった。
なんで正月からそんなに面倒な事をしなければならないのかと。
当時箱根駅伝はテレビ中継もなく、沿道の応援もほとんどいない陸上ファン以外にはあまり人気のある行事ではなかった。
1/1夜武蔵小杉の柔道部合宿所集合
そこで仮眠する。
1/2早朝より武闘派の空手部と柔道部幹部4名を乗せた赤いファミリアを繰って読売新聞社前のスタート地点へ。
かわいい赤いファミリアに乗っているのは派手な学ランにパンチパーマ或いは角刈りのムサい男5人。
全員体格がいいので重くて車がスムーズに加速しない。
さて読売新聞社前
各校の関係者の人と車がひきめしあって停める所がない。
後席で箱乗りした先輩が怒鳴りながら人をどかして停める所を確保。
応援団と共に応援で選手を送り出したらすぐに鶴見中継所に向けて走る。
応援団は幌付のトラックの荷台に団員を詰め込んで爆走する。
そのトラックを追って鶴見を目指すのだが、
当然最短の道は選手が走るため規制中。
裏道を突っ走る。
選手が中継所に達する前に応援の準備をしなければならない。
応援団トラックは黄色信号、赤信号ものともせずクラクションを鳴らしながら突っ走る。
とてもじゃないが普通の神経ではついていけない。
赤信号で止まる度に後席の空手部主将が頭をはたく。
必死になって走って鶴見中継所へ。
今では考えられないけれど中継所には各校の関係車両の進入が許されていた。
しかし狭い中継所に大量の車が入ってくるのだから大混乱となる。
怒声のなか駐車場所を確保して選手の応援。
選手が出走したらすぐに戸塚へ向かう。
ところが中継所を出るのにまた一苦労。
各校の応援団は出走順に次の中継所に向かって一刻も早く出たいから出口は大混乱。
応援団のトラック大から大きく離された状態で赤信号に引っかかるとまた頭をはたかれる。
イライラした空手部主将、わざわざ履いていた革靴を脱いでそれで殴るようになる。
つま先を手で持って踵部分で殴る。
洒落にならない痛さに呻きながらひたすら次の中継所を目指す。
各中継所を経ていよいよ箱根の山へ。
事前に応援団から箱根に入ったらトラックの後ろにキッチリ付いて来いとの指示があったが、理由は走っていて身にしみた。
大渋滞の箱根はほぼ反対車線を走る。
本当に死ぬかと思った。
あれほど交通違反を犯しながら事故や違反切符を切られなかったのが本当に不思議である。
往路の応援が終わって一安心と思ったら、そこから大宴会の準備。
チャチャっと温泉に入ってから応援団の一年と共に下働き。
翌日の復路も同様無謀な運転で冷や汗をかき、頭をはたかれながら無事ゴール。
ヤレヤレ終わったと思いきや、新宿でお疲れ様会をやるから新宿まで車をまわせとの指示。
その途中の青山通りで後ろからしつこく煽ってくる改造車がいる。
私のファミリアはフロントガラス以外濃いスモークを貼っていたので外から中は見えない。
でかい男が5人も乗っているので外から見ると車高を落としているように見えたのだろうか?
当然加速も鈍くゆっくり走っていたのがいけなかったのか?
途中で同乗の先輩方に煽られている事を告げると全員ご立腹。
信号待ちで止まるやいなや全員飛び出して後ろの車が動けないように囲む。
まさかかわいいファミリアからそんな男たちが出てくるとは想わなかったのだろう。
煽ってきた兄ちゃんは下を向いて目を合わせない。
出てこいと叫べどもただ怖くて下を向いているだけ。
空手部主将の正拳突きが運転席側のガラス窓を何度も決まる。
柔道部の先輩は後ろバンパーを掴んで激しく車を揺らす。
途中で信号が変わるもクラクションを鳴らす車はいない。
後ろにいた車はみんな静かに横に車線を移して静かに去っていく。
結局相手が出てこないので暴力沙汰にならずに済んだ。
当時はなんて酷い貧乏くじを引いたも思っていたが、今思えば選手と共に箱根まで応援できたのは実に珍しい体験だったと思う。
しかし当時は無茶苦茶な学生が結構いたな。
遠い昔の思い出でした。